sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.13

『トップアスリート』であり『夫婦』であり『一児の親』でもある、
二人の絆を繋ぐものとは・・・?

聴覚障害アスリート高田裕士
視覚障害アスリート高田千明

聴覚障害者のオリンピック”デフリンピック”の日本代表であり、400メートルハードル日本記録保持者の高田裕士と、
IBSA WORLD GAMES(視覚障害者の世界大会)日本代表で、日本女子初のメダル獲得者である高田千明。
『目と耳で半分こ』な二人の生き方をお伺いしました。

二人の出会い

聴覚障害者のオリンピック“デフリンピック”日本代表であり400メートルハードル日本記録保持者の高田裕士と、IBSA WORLD GAMES(視覚障害者の世界大会)日本代表で、日本女子初のメダル獲得者である高田千明。
二人は共に日本を代表する短距離ランナーであり、公私共に支えあうパートナーである。学生時代、共に国体に出場する注目選手であり、顔見知りであった二人が再会したのは、今から7年前、2007年の初夏のこと。明るくて笑顔の絶えない千明と、背が高くて精悍な裕士。陸上にどっぷりとつかり、毎日練習に励んでいた千明は、一緒に練習する仲間に「高田ってやつが千明のことを探しているけど・・・。」と声をかけられる。
「誰 だろう?高田・・・??ああーーーー!!!。」
競技場で再会し、練習を共にすることになった二人が、仲間と共に同じチームで練習することを決め、お互いを意識し、付き合うようになるまで、自然な流れだった。

正反対の二人

裕士は、1984年11月3日、厳格な両親の元、高田家の長男として誕生する。聴覚に障害を持って生まれた裕士を、「耳が聞こえないことを言い訳にするな!」と、母はとにかく厳しく育てたという。勉強にしても、スポーツにしても、そして、聴覚障害を持つことで音を取り難い 、発音に関しても。時には手をあげることも少なくはなかった。先天性の聴覚障害者は、言葉を話すことは少ないという。
後に出会う千明も、聞こえていない裕士がこんなにも自在に言葉をあやつることに驚いたと言っている。そして、こんなにしゃべることのできる人でなければ、全盲の自分との結婚は到底難しかっただろうとも。
社会の障害者に対する偏見への反骨精神でいっぱいだった母の厳しくも深い愛情は、裕士の横浜国大寄宿舎への出発当日まで続く。
家を出る最後の日、母は「お母さんはお姉ちゃんのことはそっちのけで、18年間、心を鬼にして裕士のことだけを必死で育ててきました。もうお母さんは何も言いません。自分の人生、好きなように生きなさい」と言って見送った。今や、厳しかったころの面影の片鱗も見えない母は、すっかり性格も、背中も丸くなっているそうだ。思ったらひたすらにやり通すという現在の裕士のポリシーは、ある意味母親譲りなのだろう。
仕事も、陸上も、我が子の教育でさえ 、これと思ったらとことん考え、きっちり調べて、絶対に実行に移す。

愛息、論樹くんの誕生

千明は、2008年の北京パラリンピック選考時に、陸上を再スタートした。最後の最後の選考でA標準突破記録(当時日本記録)を突破した千明は、その過酷な練習の結果かなわず、選考から外れてしまう。障害者スポーツの厳しいところである。記録だけではジャッジされない。知覚障害だけでなく、車椅子も、CP(脳性麻痺)も、切断も全て合わせて、そこから枠数に対し、前年度の世界大会出場数などを合わせて決定する。千明は8名の枠中9番手で惜しくも選考からはずれてしまった。テレビ取材が全ての試合に同行するほどの注目度の中での結果で、千明は落胆する。しかし、選考を終えてしばらくし、千明はお腹に新しい命が宿っていることに気付く。何よりも嬉しい、神様からのご褒美であった。
12月27日、キリスト生誕の二日後に産まれ落ちたその命は、初めオギャーと声を上げなかったという。一瞬の間をあけ元気に泣き叫んだ命を、看護士は出産に立ち会った裕士にまず抱かせたそうだ。
出産に至るまで、たくさんの不安があった。生まれてきた子供に障害があった場合、自分たちだけで育てていけるのか?障害の種類によっては、想像もできない生活が待っているのではないか。お互いの両親が口々にそう述べる中、2人は1つの結論に達する。 「そうなった時は、そうなった時。目が悪くたって、耳が悪くたって、なにが悪くたって生きていける。大丈夫!!!!」
裕士に抱き上げられ、そっと口づけされた赤ん坊は、五体満足の元気な男の子だった。千明がパラリンピックに行けない代わりかのようにやってきたその命に、二人は“論樹(さとき)”と名付けた。人生最大の宝物を手にした瞬間だった。

目と耳で半分こ

裕士と千明、二人は暇さえあれば顔をよせて楽しげに言葉を交わし、笑顔を交わす、ほほえましい仔猫の兄弟ような夫婦である。2人で1人という意識は強く、例えば外食をする際、目の見えない千明に代わってメニューを読み上げるのは裕士、耳の聞こえない裕士に代わって店員に注文するのは千明、正面から来る車を目で認識し、避けるのは裕士、後ろから来る車の音を耳で聞いて、知らせるのは千明、と分担がある。
時に互いの違いから、気遣って欲しい点や言って欲しいことが異なり、それが夫婦喧嘩につながることもあるそうだが、
最近では息子の論樹が、喧嘩の仲裁に入ってくれるまでに成長し、より家族の絆が深まっている。

パパが一番になるの――!!!

去年、ブルガリアのソフィアで開催されたデフリンピックで、前大会同様日本代表として選出された裕士の応援に、初めて千明と共に同行した論樹は、大興奮。
「パパが一番になるの――!!!」自慢の父親を四歳の論樹は大きく声を張り上げて応援した。
結果は、400mハードル初の決勝進出。リレー種目では国際大会でもメダルを獲得している裕士であるが、個人競技でも更なる進化を遂げる結果となった。
裕士の快挙は、論樹だけでなく、千明の心にも熱く火をつける。アスリートでありながら、母親・妻である千明は、幾度となく家庭と競技生活とのてんびんで揺れ動いていた。しかし、こう胸に誓う。
日本記録を出しながら北京・ロンドンパラリンピックを逃した雪辱を必ず果たしたい!私だけ辞めることはできない。愛する息子に、希望を持ち続けるところを見せたい・・・!!そう、心を奮い立たせるきっかけとなったのだった。

人生のハードルを越える

裕士はこう言う。「今、自分の取り組んでいる競技が400mハードルということもあり、ハードルと、人生というものをいつも重ね合わせて考えるんです。というのも、ハードルは日本語にすると“障害”。僕の場合、聴覚の障害ということもありますが、人生には目に見える障害、目に見えない障害がたくさんある。そして、その障害はみんな違うんです。1人1人違うそのハードルから逃げてはいけない。ひっかかっても、ぶつかって転んでも良いんです。越えられなくてもぶつかっていくということを、競技生活を中心にずっとやっていきたい。『ハードル』は、見方を変えれば目標とも言えるんですよね。ジャンプをして越えた先に、自分の夢がどんどん大きくなっていく。飛べなければ違う目標をつくるきっかけに しても良い、いつもハードルを持つことが大事なんです。」それは、自分という存在が輝けるものとなるために・・・。

論樹の言葉

取材中、競技場で論樹の口にした言葉。「お母さんは目見えなくて、お父さんは耳聞こえないけど、すっごいはやいんだ。すごいんだよ。でも、僕が一番はやいんだけどね。」5歳になった論樹の誰よりの憧れは、他ならぬ両親であり、そして、彼自身が何よりも未来への希望なのだ。

人生で大切なものを円グラフで表してください。

裕士さん 「家族」「陸上・仕事」「友人」「趣味・読書」
千明さん 「生活」「陸上」「生活」

高田 裕士 Yuji Takada

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高田 千明 chiaki Takada

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