Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]
探究心の赴くままに
僕はただその列車に乗ってしまった
ライフセーバー和田 賢一
text / Rika Okubo
Episode1
生きる目的を見失ってしまった。
発端は、イップス(yips)だった。メンタルが重要となるゴルフ・野球などのスポーツで、精神的な原因などから普段と同じパフォーマンスができなくなる症状全般を指し、競技ゴルファーなどはかなりの割合でイップスを経験すると言われている。
賢一が、初めて心血を注いだのは野球だった。幼い頃から運動神経は抜群。全力で野球に取り組み、強豪校へと進学。このままずっと好きな野球をやっていくのだと思っていた。しかしその強い思いとは裏腹に、徐々に思うように身体を動かせなくなる。
動悸がし、呼吸がうまくできない。今まで自然にやっていたことのはずが、やろうとすると理由なく身体が硬直する。症状がわかったタイミングで確実な克服法はなかった。地獄だった。受け入れ難いあまりの現実に、最終的には家を出ることすらままならなくなってしまう。
賢一にとって野球は自分が全力投球するべき“何か”だと信じていた。 最終的に賢一を救ったのは幼馴染の言葉だった。「エジソンだって電球を作るのに6000回失敗している。1回でできて大したことなどないはずだ。」
諦めるのはまだ早い、賢一はまた歩き始めることにした。
Episode2
日本大学文理学部体育学科進学後、4年間スポーツに明け暮れた賢一は、当時日本で普及し始めていたコアトレーニングに目をつける。体幹の安定性と柔軟性を併せ持つことでパフォーマンスの向上を図るという考え方はまさに世界のスタンダードになりつつあった。賢一はこれを習得するべく、その起点となるトップトレーナーが拠点を置くアリゾナへ足を運ぶ。学ぶのであれば世界一の環境に身を置きたい。持ち前の行動力とアリゾナでの出会いをきっかけに、帰国後はなんとあの超人気ダンス&ボーカルグループの専属トレーナーとして働くことになった。
日々の業務や土日のツアーへの帯同など忙しい生活を送っていたさなか、資格試験に義務付けられている心肺蘇生法の講習を受けたことが大きな転機となる。そう、講習の主催が日本ライフセービング協会だったのである。ライフセービングの“誰かを守る”という価値観に触れると共に、この時がライフセービング競技という存在を知るきっかけとなる。「これだ!」賢一の心に再度火がつく。大学時代、トップで活躍するアスリートが周囲に多数いる中、体力測定の結果はいつもほぼ満点。賢一の結果は必ず彼らを上回った。心の奥底ではいつも、戦うことを渇望していた。専属トレーナーとして帯同するアーティスト達が、超人的なスケジュールをこなしながらトレーニングの時間を欠かすことがなかったのを間近で見ていたことも精神的後押しになった。賢一は仕事を続けながらビーチフラッグスに取り組むことに決めた。
ビーチフラッグスを国技とするオーストラリアに、驚異的な強さを誇る選手の存在を知った賢一は、彼の強さの要因であるスタートに目をつける。賢一なりに分析し、仕事前6:30〜7:00と仕事後23:30〜0:00毎日かかさず近所の砂場で練習をすることにした。朝50回、夜50回、欠かさず繰り返すと3年後には総回数10万回を超えてくる計算だった。身体能力のポテンシャルやトレーナーとしての知識はもちろん強みだったが、ビーチフラッグスを粘り強く分析し続けたのが功を奏した。練習が10万回を超えた頃、賢一はビーチフラッグスの日本チャンピオンになっていた。
26歳になった時、賢一は決断する。世界チャンピオンを目指すためにオーストラリアに行く。後先を考えると当然不安もあったが、突き動かされるような思いには勝てなかった。仕事を辞め、オーストラリアに渡ることを決めた。
Episode3
オーストラリアでやるべきことは決めていた。異次元のスタートを切り、スタートで全てを決めてしまうというあの選手、サイモンハリスと共に練習する。毎週土曜日、練習の際に彼をこっそり撮影し、翌土曜日の練習までに1週間かけて徹底的に分析、反復的にトレーニングを繰り返す。全てはチャンピオンになるため。1日の食費は3ドル〜5ドル、生活はがらりと変化したが一歩、また一歩と、求めている場所へ近づいているのを感じられた。同時に、このサイモンハリスという選手の恐ろしさを身にしみて感じることになる。ビーチフラッグスのために命を落とせると豪語する孤高のチャンピオンは、だからこそ全豪選手権優勝11回という驚異的な記録を叩き出していた。
5ヶ月後、クイーンズランド選手権で無名のアジア人選手がチャンピオンを破るという見出しが新聞を飾る。賢一がついにサイモンハリスを破った瞬間だった。
Episode4
続く全豪選手権。優勝を期待される中、惜しくも2位で大会を終えた賢一は、改めて走るということを見直さざるを得なくなる。この大会、スタートでトップに踊り出るもフラッグまでの20メートルで走り負けてしまう結果だった。実際、トップ選手たちは砂の上を走る天才でありながら、トラックでも100メートル10秒前半の記録を出すという強者ばかり。世界一を勝ち取るのためには走りの強化が急務だった。賢一は日本に帰国し、走るための環境を探し始めた。ところが、受け入れ体制はそう簡単には見つからない。この時ふと賢一の頭にある人が浮かぶ。人類史上最強のスプリンター、ウサインボルト選手だった。ともすれば笑ってしまうような話であるが、賢一はいたって真剣だった。やってみないことには後悔する。ゼロからボルト選手に繋がるコネクションを探し、直接チームに練習参加することにした。本気と熱意が伝わり、なんとジャマイカ行きが決まったのだった。
3ヶ月間、彼らの特別なプログラムを徹底的にこなした賢一は100メートル11.8秒だった自己記録を1秒減の10.8秒に縮めることに成功した。 世界一は、もうすぐ。あと少し手を伸ばせば届くところまできている。
目的のために全力投球し、探求し続けてきた。全力で野球ボールを投げることができなくなった時、目的を失い限りなく死に等しい世界を知った。けれど、ライフセービングに出会うことができた。自分のレールをゼロから敷くことは決してたやすくなかったが、追求の先にあるものこそが、自分を輝かせてくれると信じていた。賢一のレールは、今もこの先もぐんぐんと伸びている。
“誰もが誰かのライフセーバーに”
不条理なこの時代に自分が体現できることがある、そう強く感じている。
Profile
和田 賢一 Kenichi Wada1987年12月8日生まれ。東京都出身。淡路島在住。ビーチフラッグス2014年全豪選手権大会準優勝。2014年、2015年、2016年全日本選手権3連覇。2014年、2015年、2017年、2018年全日本種目別選手権優勝。座右の銘は、「誰もが誰かのライフセーバーに」